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=院長日誌補足=
「バカは風邪ひかない、と進化論」
下線のある語句は、関連サイトもしくはページへリンクが張ってあります
2001/01/31 (水)

反省
 今月はどうも無責任なことばかり書き綴ってしまった気がします。
 いくつかメールや掲示板でご指摘を受けました。
 まあ、僕が個人的に考えたことを「日誌」という形で書き綴り、それを皆さんに盗み見ていただく、という主旨ですので、何卒ご理解いただけますと幸いです。

 また、ある特定の職種の方を責めるような書き方をしてしまったことも反省しております。実は当院の近くにも結構大きな「お役所」があるのですが、いつも患者さんとして来ていただいて、みなさんいい方ばかりです。
 歯医者もそうなのですが、一部の人が「悪いこと」をすると、あたかもその業界全体が「悪い」かのように見てしまう、あるいは見られてしまう、という傾向があることは否めません。

 来月は原点に立ち返って「歯科」のことを重点的に書きたい予定でおります。内容的には「間違いだらけの歯医者さん選び」の改訂的なものになるかと思いますが・・・
 また、最近とみに増えてまいりました、「歯科相談」の内容も一般化した上で盛り込みたいと思っております。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
2001/01/30 (火)
「補足」
 本日付の日誌で、「進化」という言葉を用いておりますが、これは厳密な生物学的な使われ方とやや乖離したものがございますので、ご承知置き下さい。
 背の高さが伸びるのは進化ではないです。
 また、「進化のメカニズム」はまだ解明されていないらしいです。
2001/01/30 (火)

また進化論
 ダーウィンの進化論には欠点があるらしい。昨日のテレビで知った。種のジャンプの説明がつかなくて、それは「進化の過程にある中間段階の化石」が発見されないからだそうだ。
 そして、それをカバーするには「突然変異」を持ち出すしかないという。あるいは「ウイルス」によって遺伝情報が書き換えられて変異するのだという。

 本当か?キリンの首は突然変異で長くなったのか?

 我々は知っている。ここ50年くらいで日本人の身長の平均が何十センチも伸びていることを。これは突然変異か?いや違う。
 環境さえ整えば、進化は短期間で劇的に起こるのではないだろうか?

 先に書いた平家蟹だって、数代で「顔」としての輪郭を獲得したではないか!
 生き物は特に生きるか死ぬかの瀬戸際では、ものすごいバカ力を発揮するのではないかと思う。
2001/01/29 (月)
「補足」
 手許の辞書で「公僕」という語彙を確認すると、とても面白い記述があったので、そのままご紹介します。

[公僕] 「権力を行使するのではなく」国民に奉仕する者としての公務員の称。[ただし実情は、理想とは程遠い]

 以上がそのまんまの記載です。全くその通りだ!
2001/01/29 (月)

犠牲心
 東京で、ホームから転落した酔っ払った男性を助けようとした二人も巻き沿いになって轢死したという事故があった。

 結果を見れば決して明るいニュースではない。でも僕はなんかものすごく感動した。
 このせちがらい世の中、自分の命を張って赤の他人を救おうとした人たちが世の中に存在する、というだけで、これはむしろ「明るいニュース」ではないかと思った。

 制度がどうなっているか判らないが、国と鉄道会社はこの救おうとして犠牲となった二人に「補償金」を出すべきであろう。二人の家族が一生食べていけるだけの・・・
 そして「国民栄誉賞」並みの称号を与えるべきである。
 そうでもしないと、本当に「正直者がバカを見る世の中」になってしまう。

 「自分の命を張ってでも他人を助けたい」・・・この精神が今の公僕にあるのだろうか・・・?
2001/01/28 (日)

革命
 外務省高官の公金横領事件はあきれて物が言えない。
 まあ、種々のコメントはニュースや新聞の解説を読んだ方がましだと思うので書かないが、こうも公務員や議員関係の汚い事件の報道に触れると、バカ正直に「税金を納めること」がバカ臭く思えてしょうがなく思うのは僕だけであろうか?

 血気盛んな国ならとっくにクーデターや革命が起こっているのではなかろうか?

 そうそう革命と言えば、IT革命が耳新しいが、革命ってなんなのだろうか?本来は「フランス革命」や「共産主義革命」などのように社会構造そのものがガラっと変わってしまうほどの変革を言うはずだ。
 しかも主体となるのは「時の為政者」の対極の立場にいる人のはずである。

 「時の為政者」がぶちあげる「革命」など聞いたことがない。
2001/01/27 (土)

点数主義
 昨日書いたようなことが起こる原因は日本の教育体系にも一因があるような気がする。もちろん学校教育を全面的に否定するわけではないが、点数主義、偏差値偏重が「売れるものが勝ち組・売れないものは負け組」という色分けをはっきりさせるのではあるまいか?

 テレビの視聴率だってそうだ。恐らく視聴率が5%とかの低率だと、時間帯にもよるだろうが、番組は中止となるであろう。
 でも5%の人はみているのである。しかも低率でありながら見ている、ということは他の高率の番組よりも「面白い」と思って低率の方を選択しているのである。

 その5%の視聴者を無碍に切り捨てるところはやはり点数主義、偏差値偏重と思われても仕方がない。

 製品もそうである。
 旭光学という会社(一般的にはPENTAX)が、昭和40年から基本構造を変えずに延々作り続けているカメラがある。PENTAX 67というカメラだ。改良は何度も繰り返しているが、骨格は変わらないはずだ。レンズも最初の一本から最近のまですべて交換して使える。
 密かにボクは関心だなと思う。恐らくばんばん売れるカメラではない。普通のカメラよりかなり大きくて重い中版だが、プロには絶大な信頼があると聞く。

 採算が採れるかどうかを度外視したそういう企業姿勢もまた、僕の目には好ましく映る。いや、そういう企業こそ応援しないといけないと思う。
2001/01/26 (金)

失敗は成功の元
 この世の中必ずしも「いいもの」「優れたもの」が生き残るとは限らない。
 ドリキャスがプレステより優れていたとか、ビデオのベータ規格がVHS規格よりも秀でていたかは僕には判らない。併用したことがないのだから・・・

 当然製品を生み出す企業の戦略とか、体力、アイディアといった要素も大分反映されることと思う。ものの良し悪しと売れる売れないは別問題のようだ。

 今を去ること10年以上前、ソニーはたびたびパソコンやパームトップコンピュータを世に送ろうとして失敗した。あるいはベータ規格やLカセットなどの失敗も経験している。
 「失敗は成功の元」という格言を地で行くかのように、ソニーはめげずに「世界に信頼されるAV機器メーカー」に成長した。

 今、特にIT関連の企業は雨後のたけのこの如く現れては消えている。
 しつこくDMや勧誘電話が掛かってきていた会社から最近何も言ってこないなあ、と思っていると「倒産していた」という事例も数多い。
 消費者としては「売り込みが妙に積極的過ぎるな」という会社には警戒感を抱くようになってしまった。
2001/01/25 (木)

ドリキャス
 「ドリームキャスト」が製造中止と発表された。

 発売時、「社運を賭けて」発売された、と聞く。社運を賭けるとは、会社の命運をその製品に賭ける、その製品が売れなかったら会社の存亡も危ういという意味ではないのか?

 それともダメだったら撤退すればいいや、という姿勢が「社運を賭けた」と言えるのだろうか?

 他社に比べて売れなかったとは言え、一応600万人のユーザーがいる。ユーザーの中には「社運を賭けて」発売されたドリキャスに期待を寄せて購入した者もいるはずだ。
 そんな企業に明日はあるのだろうか?
2001/01/24 (水)

DSL
 たまには小難しいハナシを離れよう・・・

 昨日新聞に政令指定都市で2月より日本テレコム社がDSL接続サービスを開始する、という記事が載っていた。
 やれついに高速回線・常時接続時代が到来するか、早速申し込もうと思ってサイトを見ると・・・どうもこのDSLというやつは「アナログ回線」からしか繋がらないらしい。

 我が家はすでにISDN回線に切り替え済みだ。しかもTA付きの電話に切り替えてまだ1年経たない。
 しかも札幌でも最初にサービスが始まる地区はごく一部のようだ。

 仕方がない。やはりケーブルテレビを待つしかなさそうだ・・・
 インターネット接続環境の進化はまだまだ遅い・・・
2001/01/23 (火)
「補足」
 本日「DSC」さんがアクセスカウンター「6000」をGETされました。おめでとうございます。近日中にGC社製「プロスペックマウスケアセット」を送付させていただきます。
2001/01/23 (火)

災害救助隊
 一昨日、異常な事態がなければ人間は切羽詰まって技術を発展させない、と書いたのだが、少し誤りを含んでいる。
 昨年も少し書いたことがあるのだが、どうして「災害救助隊」を作らないのだろう?
 軍隊や自衛隊など全て解散してしまえばよいのだ。戦争は「人間の意志ひとつ」で回避できるのだから。

 それに対して災害は人間の意志とは関係なく襲ってくる。
 特に地震や噴火、天候不良による自然災害は必ずといっていいくらい人的、物的被害をもたらす。

 年に一度は世界のどっかこっかの国で、一国の消防や軍隊の力だけではどうしようもない位の大災害が起こっている。そんな時に「国際災害救助隊」があって力を合わせて救助にあたればなあ、といつも思う。
 G8各国の軍事予算の1%でも集めれば立派な「国際災害救助隊」ができるに違いない。

 いつも思う。「尊い命」と言う割には、その命を奪われないようにするため、何かをしているのだろうか?と。
 人の命を奪う「軍備」の金をどうして命を奪われないようにする方に回せないのだろうか?と。
2001/01/22 (月)

車メーカーに一言
 さらにいつも矛盾に思う話をひとつ。

 カーレースである。
 片や「できるだけ公害を少なく、環境に優しい車造り」をしたり顔で掲げるメーカーが、平気で意味もなく公害を撒き散らすオンロードレース、環境を破壊するオフロードレースに血道を挙げている。

 そして、「カーレースで培った技術を一般用にフィードバックしています」、などと馬鹿げたことを平気で言っている。
 一般公道で200キロも出せるクルマを作ること自体が無意味なことではあるが、「どうして他者との争い」という過程を経なければ、新たな技術を生み出したり、技術の発展ということをなしえないのだろうか?

 これは「戦争がなければ技術はここまで発展してこなかった」という屁理屈に相通ずる問題である。

 「スポーツの大義名分」のもと環境破壊を平気でする愚行にそろそろ気付いてはいかがだろうか・・・
2001/01/21 (日)

悲しいサガ
 アメリカでは「福祉関係の機器」の発達が著しいらしい。特に技手とか義足、体の不自由な方向けのコンピュータ関連機器といったものだ。

 先日テレビを見ていたら、「視線」のみでパソコンに文字を入力する装置が開発され、その技術は戦闘ヘリコプター「アパッチ」の視線で照準を合わせる装置の技術が応用されている、と解説していた。

 嘆かわしい。まったくもって嘆かわしい。

 ひとたび戦争が起こると、殺るか殺られるかの問題なので、人間は切羽詰って「技術の種」を跳躍する技術を生み出す。
 もとはと言えば、コンピューターも大砲の弾道計算をする必要から生まれたものだ。

 原子力発電などの技術も第二次大戦がなかったら存在していたかどうか、疑わしい。ロケットの技術もそうだ。航空機の技術も二度の大戦で飛躍的に向上した。
 よく「戦争のために開発された技術は民生用にフィードバックされて役に立っている」などと聞くこともあるが、これは全くお門違いである。

 そういう「異常な事態」がなければ切羽つまって技術を跳躍させられない人間自体が悲しい存在だ、と言いたいのだ。
2001/01/20 (土)

第二次大戦
 「バカは風邪ひかない」と「進化論」のハナシから少しずれてしまった。

 いろいろ社会で問題が起こっている。しかも世界的に同時多発しているように感じるのは僕だけだろうか?
 いろいろ原因が言われているが、突き詰めれば根本の原因は「第二次世界大戦」にあったのではないかと思う。

 戦争が起こると、まず「健康な肉体を持つ働きざかりの若者」がまず戦場に送り込まれた。もちろん、頭のできも平均値以上が求められたに違いない。
 敵艦と味方の艦を瞬時にシルエットだけで見分ける訓練をしている場面などを見たことがある。
 また、何より強固な愛国心が求められたことだろう。

 そして、何百万という尊い命が奪われた。しかも「上記の優秀な人間」から優先的に・・・それは、はからずも健康な遺伝子が抹消されたことに他ならない。
 もちろん、遺伝子に優劣を付けることは「危険な思想」に繋がりかねない。ドイツナチの政策の危険性を見ても判る。

 僕も「残された遺伝子」の末裔である。大げさかも知れないが、少しでも社会が良くなる方向に何らかの寄与ができれば・・・と、思ってはいる。
2001/01/19 (金)

テレビショッピング
 昨日記載したことは、何が何だか判らない、という方が多かったことと思う。
 実は僕もよく判らない。とにかくわからないことを発表してアメリカ人が楽しんでいるらしい。
 ちょっとずつ情報をリークして「期待感」を高め、バっと発表して一気に売る手法だろう。(ちなみにここで少し詳しく書いてあります。情報提供されましたdeoさんに感謝)

 アメリカ人はモノの売り方がうまそうだ。それは「深夜のテレビショッピング」を見ていてもそう思う。日本とアメリカでは全然違う。
 まず、日本ではだいたいスタジオでヒマそうな主婦を集めて番組が進む。そして「何品」も次から次へと紹介していく。だいたいがワンパターンだ。

 それに比してアメリカの番組はもう一種のショーといっても過言ではない。
 時には「エンジンオイル添加剤」なぞは氷漬けにしたエンジンを点火させるなどのパフォーマンスを演出する。クルマの表面を熱して目玉焼きを焼くシーンも良く見る。

 スタジオに集まる面々も様々な年齢層の老若男女が集って楽しそうである。
 そして最大の違いは「一品」をこれでもかこれでもか、と宣伝することである。

 もちろんどちらが上手い手法だとか比較するつもりはない。文化の違いと言ってしまえばそれまでなのだから・・・
 でも、僕はアメリカの手法の方が「見ていて欲しくなる」のは事実である。実際買ったことはないが・・・
2001/01/18 (木)

GINGER
 昨晩のニュースステーションから・・・

 アメリカで極秘裏に「GINGER」という発明品が開発されつつあるらしい。
 実に画期的な発明品らしいのだが、詳細は明らかにされていない。

 みんなで当てっこする、というのはいかがでしょう?
 番組で言っていたヒントを要約すると下記の通り。

・大きさはパン1斤くらい
・世界中で役に立つ
・間違いなく売れる
・10分位で組み立てることができる

 だそうです。どんなモノなんでしょう?新たな「種」となりうるのでしょうか?
2001/01/17 (水)

モノの進化
 形のあるモノ、社会に出回る「製品」というのも「進化論」を踏まえてみると面白い。
 例えば「テレビ」というものは本質的には誕生してから今日まで基本構造は何も変わっていない。
 電気を使い、電波を画像と音声に変換し、それをブラウン管とスピーカーで再生するという仕組みは「試作機」から今日の「デジタルハイビジョン」まで同じ仕組みである。

 もちろん性能は比べ様がないくらい進歩しているが・・・
 これはひとつの「種」が誕生し、それがまさに「進化」してきたという生物の過程と似ている。

 自動車も「内燃機関」のエンジンを持つ乗り物としては最近まで大きな技術革新はなかったが、ハイブリッドエンジンや電気エンジン、あるいは水素電池エンジンなどを積むようになると、「亜種」といえるくらいの進化と言えるだろう。
 カメラも銀塩からデジタルへの転換は大きな進化と言えるだろう。

 20世紀末から今世紀にかけては、工業製品は改良程度の進化に留まらず、「種」が入れ替わるくらいの進化をとげている。

 そして今、遺伝子の操作という人為的な要素によって、動植物にも「人為的な進化」の波が押し寄せてきている。
2001/01/16 (火)

1年が2年?
 昨年の12月に書いていた「暦」のことを読まれた方からご指摘のメールを戴いた。

 初期の天皇はものすごく長生きした記録が残っているが、よくよく調べるとそれは現在の「1年」を「2年」に数えたためであるらしい。そしてそれは古代中国に由来する「歳」の数え方であるらしい。
 現代でも「二毛作」の稲作をする地方があるが、古来二毛作をする土地・民族はそれに合わせて現在の半年を「1年」とする暦と持っていたのではないか。

 というのがメールの主旨である。
 さらに「年」の始まりは「春分」と「秋分」だったとのこと。確かにその方が日付を特定しやすい。
 東南アジアなど一年を通じて気候が温暖な地方では、そのような暦の数え方が発祥しても不思議はない。また、暦と農耕が密接に関わっているいい例であろう。

 やはり「暦」は興味深い・・・
2001/01/15 (月)

平等とは
 昨日、学校教育のことを取り上げたが、本日の「たけしのTVタックル」でも学校教育の矛盾について触れられていた。現在の「平等教育」こそ不平等だ、という結論だった。
 もっともである。「違うモノを違うように扱わない」ということが平等ではない。

 僕は学校は大嫌いだった。特に義務教育は。
 良くも悪くも「出る杭は打たれる」体質は何も学校教育に限ったことではない。
 社会全体としてその風潮がある。皆と同じコトをしていれば無難な社会だ。これは恐ろしいことに悪い方にも作用する。
 いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」である。

 でも、この体質には根深いものがある。恐らく農耕民族のサガであろう。
2001/01/14 (日)

学校教育
 いろいろと「教育の問題」についても考えさせられることが多い。
 でも、とりわけ「学校教育」はもう抜本的(中途半端じゃない抜本的)に土台から作り直した方がいいと思う。

 理由は簡単である。

 例えば、今から50年くらい昔のことをアタマに思い浮かべて欲しい。テレビはない。ラジオがかろうじてあるかないか。もちろんインターネットなどあるはずもなく、本も貴重なものだったに違いない。映像はたまに見る娯楽の「映画」くらい。

 当時はそんな状態だから、子供達が得られる情報は「学校の授業」から「だけ」と言っても過言ではない。
 例えば、「社会科」にしても「理科」にしても、学校の教科書は貴重なものだし、先生のハナシは「未知の世界」を語る貴重なハナシだったはずだ。子供が目を輝かせて授業を聞いていたに違いない。

 今は、恐らくテレビのない家庭は稀であろう。様々な情報が溢れ返っている。
 社会科の授業を受けるより「ドキュメンタリー番組」ひとつ見たほうがよほど面白そうだし、タメになる。
 理科もそうだ。動植物にまつわるクイズ番組なんか、しょっちゅう放映している。
 教育テレビなどでの「実験」の番組なんか、コドモは目を輝かせて見ている。

 テレビは万能だ、とは言わない。視聴率さえよければ良いという低俗な番組も多数あって反吐がでそうになることも多い。

 最近では子供もインターネットを操って種々の情報を検索することも多くなってきているらしい。
 ただし、もちろん「学校は不要」とは言わない。順序だった、系統だった教育にはやはり学校は必要と思われる。

 でも50年前に作られた仕組みはさすがに現状にマッチしていないのではあるまいか?
2001/01/13 (土)

成人式
 ちょっと日が過ぎてしまったが、先日成人式という行事があったらしい。
 かなり「行儀の悪い新成人」が報道にさらされていた。

 中でもあるところでは「行き過ぎた行為」に対して告発することが「大人の責任の取り方だ」などと、実際告発してしまった自治体があると聞く。
 何とお間抜けな話だろう!と眼を、耳を疑いたくなる。

 もちろん「大人」はあのような度の過ぎた「行儀の悪い」行動をしてはならない。
 だが、告発された彼らは果たして「大人」なのだろうか?大人の皮を被った子供ではないか?しかも「大人になるための教育」が施されていない・・・

 僕は彼ら新成人の行動を「容認せよ」というつもりはさらさらない。しかし「結果」だけみてなぜあんなことになってしまったのかという「原因」や「経過」については議論されているのだろうか?

 彼らが「希望を持って」今後を生きていこうとする「明るい未来」は、果たしてあるのだろうか?
 年金問題にしても、少子高齢化問題にしても、経済の先行きにしても「明るい材料」を探しても何一つ見当たらない。

 「今後、この明るい未来をキミ達に託そう!」と胸を張って言える社会作りを大人たちはしてきたのであろうか?
2001/01/12 (金)

一応の結論
 先にも述べたが、身分制度があった時代、そしてもちろん貧富の格差が現在よりはるかに大きかった時代、医療もまたあまり発展していなかった。

 健康な者の遺伝子だけが生き残る、そして力の強いものが生き残る、いわゆる弱肉強食の時代だったと思われる。弱肉強食は本来の意味ではないが・・・
 恐らく重度の感染症にかかれば死に至ることも少なくなかったであろうし、ある程度人口の集まった都市部でなければ「医者」と呼ばれる人もいなかったであろう。

 インフルエンザなどで幼い命が奪われることも珍しくなかったはずだ。その他「風邪」に近い症状を示す感染症も沢山あったことだろう。つまりは「抵抗力の大きい遺伝子」しか生き残ることができない。

 一方、一部身分制度の高い階級のヒトはつたないながらも医術を使う医者にかかったり、「安静」を保つことができて回復するケースもあったかも知れない。何も対策が講じられない身分のヒトよりは「弱い遺伝子」でも生き延びることができた可能性がある。

 もちろん「生活環境」や「食生活」においても格段の差異があったに違いない。

 これが何世代も繰り返されることにより、世襲制が一般的であった中世以前に「抵抗力が弱い上流階級」の人種と「抵抗力が強い下層階級」の人種が色分けされてきたのではあるまいか?

 そして当時の「上流階級の人種」が「下層階級の人種」に対して「バカ」という呼び方をすれば、「バカは風邪をひかない」という言い伝えが成立することとなる。

 もちろん近代化や医療が発展した現代、この言い伝えはもはや通用しなくなってはいるだろうが・・・
 ただし、先進国(と自惚れている国々)は国民挙げて感染症に弱くなっているだろうということは容易に推測できる。いつかシッペ返しが来る。いやもう来ている。
2001/01/11 (木)

人間が失ったもの
 抗生物質や徹底した消毒などのお陰で、細菌による重大かつ広範囲な感染症の蔓延ということは少なくなった。コレラやチフス、ペストあるいは結核などといった疾患である。
 もちろんそれと引き換えに「耐性菌」がどんどん出現しているという事実もあるが、今回は触れない。

 問題は人間の抵抗力がどんどん低下しているのではないかと危惧される点である。

 それは何も抗生物質の発達だけの問題ではない。生活環境そのものの発達にもよるところが大きいと思う。
 僕がまだ小さい頃、家の中に石炭ストーブが一つしかなかった。夜寝る時は誰も石炭を補充しないので、自然と消える。
 厳冬期には明け方の気温が氷点下20度ということも珍しくない場所に住んでいた。

 水道は落として寝ないと絶対翌朝破裂した。干しておいた洗濯物は朝パリパリに凍っている。夜寝るときも布団は冷たく、30分くらい布団の中で丸まっていないと手足は伸ばせなかった。窓は結露と霜でよく「綺麗な氷の結晶」ができていた。
 そんな中で生活していた。

 今はどうだろう、全室全日暖房である。廊下やトイレにまで暖房が付いている。もちろん夜寝るときはボイラーの目盛りを小さくはするが、すっかり消して家の中で水が凍ることはない。窓が結露することすらない。
 外に出る時もちょっとそこまででも「クルマ」で出かけてしまう。

 こんな環境で育った子供に「抵抗力」が付くはずがない。すぐ風邪をひく。
 そしてそれは身体だけの「抵抗力」の問題ではない。暑さ寒さを我慢できない、という「精神的な抵抗力」の低下にも繋がる。

 人間は「便利さ、快適さ」の代償として「心身両面の抵抗力」を失ってしまったのである。
 キレる子供が増えている。あたりまえだ。「我慢するということ」を知らないのだから・・・
2001/01/10 (水)

退化と進化
 最近の若い人には「もともと親知らずがない」という場合がある。
 歯の数はどんどん少ない方向になっていく。

 これは「進化」なのだろうか、それとも「退化」なのだろうか?恐らくは「退化を伴った進化」だろうと思う。
 これは人間のあらゆることに言える。心身両面で。

 アフリカの原住民は「目」が異常に良いらしい。視力が5.0とか平気であるらしい。
 これは当然である。サバンナや砂漠で今なお「外敵」をいち早く目視しないと生存そのものが危ういからである。また「獲物」を捕らえるためにも良い視力は必要だ。

 翻って、先進国に視力はせいぜい1.0もあれば(矯正視力も含めて)十分暮らしていくことができる。
 これはやはり「退化を伴った進化」ではなかろうか?

 足腰も多分「退化を伴った進化」が進んでいるはずだ。
 そして「感染性の疾患に対する抵抗力」も、悲しいかな「退化を伴った進化」が進んでいるのである・・・
2001/01/09 (火)

平家蟹
 今までたびたび「進化論」のことについて触れてきた。
 進化論に興味を持っているからだ。

 象の鼻や麒麟の首は言うに及ばず、「羽」に見事な目玉模様を付けた蝶などは、「鳥などの外敵から身を守るためにそういう進化を遂げた」などと言われる。
 こういう表現を真顔で言うヒトのことを信用しない方がよい。
 こんなことを象や麒麟や鳥が「意思を持ってやったことではない」のである。

 「進化」というのは「種自らの意思」ではなく、常に「生存競争で強者が生き残るという選択の繰り返しの結果」起こるものなのである。

 面白い逸話がある。
 「平家蟹」という蟹をご存知だろうか?甲羅に「平家の武士」の顔が浮かび上がる不気味な蟹らしい。

 この蟹は人間が作り出したと言っても過言ではない。そして源氏と平家が争ってこなければ「生まれてくることがなかった」蟹である。

 過程はこうだ。最初はただの「蟹」に過ぎなかった。たまたまちょっと「顔」の模様に見える甲羅をもつ蟹が取れる。
 他の何の模様もない蟹はそのまま収量するが、たまたま顔模様の付いた蟹は不気味がられて捕まえてもすぐ海に放されたそうだ。
 しかも源平合戦で「平家の武士」が大勢死んだ海だったらどうだろう?「平家の怨霊」が乗り移ったと思い込むのも容易に頷ける。

 そしてそれが何代も続くと、「顔」としての輪郭がはっきりした蟹同士が交配し、ますます顔が際立つ。それが人間に捕獲されることなく「平家蟹」としてなりたってしまった、ということだ。

 これを「蟹」が意思をもって「生きていくための知恵」で獲得した「進化」と言えるだろうか?
 人間以外の動植物は大なり小なりほとんどこの過程によって進化してきたはずである。

 秋のハエはしつこい。なかなか捕まえることができない。
 これは「秋のハエがすばしこくてしつこい」のではない。「すばしこくてしつこい」から秋まで生き延びることができたのである。
2001/01/08 (月)

士農工商
 日本の中世はいい時代だったのか、それとも暗黒の時代だったのか。
 もちろん直接その時代に生きたわけではないので客観的には判らない。ただ、現代に生きる我々からは「今」と「江戸時代」を比べて「どちら」が「何」が良かったか、悪かったかを比較検討はできる。

 近代以前、まあどの国・地域でもだいたいそうだったと思うが「身分制度」があった。わが国では「士農工商」と大雑把に言われるものである。
 僕は歴史学者でもないし、学生時代歴史が得意だったわけではないので詳しいことはわからないが、この士農工商は本当は「士商工農」だが「年貢」の主たる納付者である「農民」を持ち上げるために2番目に持ってきた、と聞いたことがある。

 もちろん現代の農業従事者を蔑視するつもりはさらさらないし、むしろ今後わが国の食料自給などの観点から、これからも重要な産業のひとつであり続けるだろうと思っている。

 現代では農林水産業を「第一次産業」、鉱工業を「第二次産業」、そしてサービス業を「第三次産業」と分類している。
 「士」はどこにいったのであろう?

 中世の「士」は恐らく現代の「行政や司法」「自衛権や警察権」という役割に置き換えられているものと考える。
 現代のそういう立場にある人が、今でも「士農工商」的な考えを持っていなければいいなあ、と「省庁再編成」に際して思う次第である。

 ちなみに「歯科」は中世では一番末席の「商=サービス業」に分類される。
2001/01/07 (日)

バカの諺
 僕はだいたいこの場にモノを書き始めるとき、「何も参考にせず」書き始める。なぜなら「先入観」を捨てるためである。
 何かを調べてから書くと、どうしても引きづられて書きたいことを書けなくなってしまう可能性すらある。

 と言う訳で、ようやく昨日本屋さんで「バカは風邪をひかない」にまつわるハナシが何かないか調べにいった。「バカ」で始まる「諺、言い回し」の類は結構あることを再認識した。
・バカと鋏は使いよう
・バカに付ける薬はない
・バカは死ななきゃ治らない(もしくは、バカは死んでも治らない)
・バカの大食い(もしくは、バカの三杯汁)
 いずれもバカを「愚か者」と定義したものであるが、「バカは風邪をひかない」という言い回しはどの書籍にも載っていなかった。

 やはりそういうことに興味を持つこと自体、僕は他の人と違うのかな?
2001/01/06 (土)

ハナシの発端
 そもそもなぜ「バカは風邪ひかない」を考えるようになったのか?

 「風邪」は感染症である。そして「虫歯」も感染症の一種である。
 実は日々虫歯の患者さんを診ていると、いろいろと疑問に思うことが多々あるのだ。まず、どんな人も虫歯になっている。差別がないのだ。
 大学教授も学生にも虫歯があるし、会社勤めのサラリーマンにも会社社長にも虫歯はある。恥ずかしいハナシ、僕にも虫歯はある。
 この人すごく頭がいいんだろうなあ、という人でも虫歯だらけだったり、このOLは美人だなあ、という人でも虫歯だらけだったりする。

 僕は世の中職業にエライとかエラクない、といった貴賎の差別をつけるつもりはさらさらない。どんな職業でも(暴力とか明らかなサギは別として)必要があって存在している職業だと思っている。
 逆に医者・歯医者がエライ職業だとも思っていない。

 エラそうにしている医者・歯医者も多いが、エラそうにしている人ほど「実際エラくはない」のに虚勢を張っているケースが多い。
 立派な会社を経営する立場の人でも、随分と腰の低い方もいたりする。そのような会社は地味ではあるが着実に成長していくようである。

 逆に勢いのある「IT関連」の新しい会社で、ちょっと業績が上向きだと「飛ぶ鳥を落とさんばかり」の勢いでエラそうにしている若造社長もいる。でもそんな会社は株価が24万円から半年で2000円になったりもする。

 つまり、虫歯と同じ「感染症」である風邪がなぜ「バカはひかない」と言い伝えられるようになったのか?その科学的根拠はあるのか?を知りたくなったのである。
2001/01/05 (金)

故事由来
 僕が「馬鹿」の語源についてあてどなく書いていたところ、閲覧された方からご指摘を受けた。中国の故事にまつわる部分があるらしい。
「1.秦の趙高が鹿を二世皇帝に献じ、馬であると言って頑張り通した故事
2.梵語moha(莫迦・痴(おろか)の意)から出たとも、趙高の故事から出たともいう」
とのことである。

 これを見ると、いずれにせよ「馬鹿」の元々の意味は「愚かなこと、人」を指したことは間違いないようだ。
 恐らく和語の「はかなし」にこの中国由来の「馬鹿」を当てたと思われる。

 僕は「バカ」は元々「愚か」な意味はなく、「程度が大きい」意味だったのだろう、ということを前提に「バカは風邪をひかない」を検証しようとしていたので、これで大きな暗礁に乗り上げることとなった。

 つまり、「人並み外れて抵抗力が高い人は風邪などの感染症にはかかりづらい」ということを結論付けようとしていたのである。(まあ、これは当たり前のことなのではあるが)
 そうは問屋が卸さないようだ・・・
2001/01/04 (木)

はかなし
 僕は国語学者でもないし、学生時代国語が得意というわけでもなかった。
 でも「ことば」には興味がある。

 先月「数」についてちょっと考察したが、どちらかと言うと西欧人は数に魔力があると考えているようだが、日本人は「ことば」に魔力が潜んでいると考えるようである。
 わが国の代名詞が「言霊のさきはう国」と呼ばれることからも伺える。

 まず「馬鹿」という言葉の語源を探る必要がありそうだ。
 国語辞典によると「はかなし」が転じたとあるが、意味合いが色々と尾ひれ腹ひれ付いたのは近世になってからだろう。

 そして「バカ」という言葉が先なのか「馬鹿」という漢字が先かも問題だが、どうも漢字は当て字臭い。

 多分、元々「趣がある」の「おかし」が、「面白い」とか「変だ」という意味合いに転じたのと同様のいきさつがあるに違いない。
 
 元の「はかなし」を当てはめると何となく意味が通ずる。
 「頭がはかない」と言えば何となく「頭の程度が劣る」感じがするし、「はかないくらいでかい」と言えば何となく「尋常ではなく大きい」という感じが何となくする・・・

 では「はかない人は風邪をひかない」とでも言うのか?
2001/01/03 (水)

バカ
 最初からハナシがずれた感もあるが、以前も書いた通り「バカ」にも二通りの意味合いがあること言いたかった。つまり「頭の程度が劣る」という意味合いと、「通常ではありえない」という意味だ。

 「バカでかい」と言えば、それは「頭が悪いくらい大きい」という意味にはならない。「そんなバカな!」と言えば、「そんな頭が悪い」ではなく「そんなことはありえないだろう」ということだ。

 もちろん単に「お前バカか!」と言えば「お前頭悪いんじゃないの!」という意味になる。

 通常、バカを漢字で書くと「馬鹿」である。馬と鹿で、なぜバカなのだろう?
 別にアマタいる動物の中で、この二つの「種」が頭の悪そうな動物の代名詞とも思えない。
 「バカ」を「頭の程度が劣る」という使われ方は、実は元々少数派なのではあるまいか?
2001/01/02 (火)

 「バカは風邪をひかない」という言い伝えがある。
 風邪をひいた人が「あっ私は風邪をひいたからバカじゃないんだ!」などと言うのを聞くこともある。

 これは「単なる言い伝え」なのだろうか?それとも「科学的な根拠」があるのだろうか?
 今月はこのテーマについて考察してみたいと思っている。

 日本語は難しい。
 「変」という言葉があるが、これはもともと中国では「争乱」や「天変地異」のことを指したらしい。そして「大変」とは500年に一度あるかないかの「変」を指したという。

 「大変だ!大変だ!」と気安く使うのは控えたいものである。
 そして日本語になった「変」には大きく分けて二つの意味がある。「変化」の「変」と「変わっている」という意味の「変」である。
 例えば髪型を「変える」といったら、それは髪型を「変に」するわけではない「変化させる」という意味だ。

 あいつは「変だ」というと、あいつは「変わり者だ」という意味である。良く解釈すれば「個性的」だし、悪めに解釈すれば「奇人」と紙一重である。まあ10人並ではないことを表すことは確かだ。
2001/01/01 (月)

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