=院長日誌補足=
TOP PAGEに戻る

2003年1月号 「開業のハナシ」

2003/01/03 (金)

賀正
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 さて・・・辺見歯科医院は1999年の1月6日にオープンしました。
 来週月曜日をもちまして、4周年ということになります。まだまだ歴史は浅いですが、なんとか軌道に乗りつつあります。

 と言うワケで、今月は「歯科医院の開業」ということにまつわるハナシを綴ろうと思います。

 4年以上前のことから振り返って書くことになりますので、記憶に定かでないこともありますが、これ以上記憶が希薄になる前に記録しておくことは自分にとっても意義があることだと思います。
2003/01/04 (土)

ビジョンレス
 いろいろなところでちょっとずつ書いてきたかも知れないが、僕は歯学部に入る時も在学中も、卒業直後でも「その後のビジョン」というものを描いたことはなかった。

 ビジョンを描くと未来が限定されてしまうからである。
 一つの目標とか夢とかを描くとする。
 目標が大きすぎると「達成しようとする意欲」が失われる場合がある。また目標が達成できない余りの挫折感も残るかも知れない。

 目標が小さすぎると目標は達成しやすいが満足度は小さい。万が一目標が達成できなかった場合の喪失感は計り知れない・・・

 将来、自分の身の丈がどのくらいかということは判らない。今以上の能力が発揮できるのか?それとも今がピークでキャパシティは低下していくのか?・・・

 もちろん個々人で色々な考え方はあるので、僕の考え方が一番とか正しいということではない。

 それでは、僕は一体どう考えて過ごしてきたのか?
 「その時点、その時点で自分で最良と思われる道を選ぶ。後で後悔のないようにその日、その日の道を歩む」という考え方だった。

 一見行き当たりバッタリである。
 ただ、やってみなければ判らないことに対して「こういう風になろう、こういう風にしよう」などと将来のビジョンを描くことはどうしてもできなかったのである。
2003/01/06 (月)

歯科医師の選択肢
 医科の場合もそうだが、歯科は大学を卒業しても「ツブシ」が効かない。
 つまり、大学を卒業し、国家試験に合格すると歯科医師としての道を歩む以外の選択肢は極端に少なくなる。

 いや、大学に入学した時点でほぼ将来の選択肢は限られてくる。
 もちろん在学中に「自分は歯医者に向いていない」あるいは大学側から「君は歯医者には向いていない」と判断されれば大学を去らなければならない。

 以前もどこかの稿で書いた気もするが、国家試験をパスした時点での将来の選択肢はいくつかあり、大きく分けて「開業医」と「大学等の勤務医」とである。

 そのウチ「大学等の勤務医」として長くやっていき、教授や助教授、講師と昇進していくドクターはごく一握りに限られる。

 つまり、必然的に歯医者は長い目で見ると「開業医」という道を選択するのが一般的ということになってしまうのだ。

 僕も小児歯科を2年、口腔外科を3年、それぞれ講座で勉強させていただき、その後開業医に数年勤務し、いずれは独立しなければならないなぁ・・・とは考えていた。
2003/01/08 (水)

自営業
 開業するということは、「仕事としては歯医者をやる」のだが、一方では「自営業を営む」ということである。

 小さいながらも「事業経営」ということでもある。

 ところが、歯医者になるのに経営のこととかを学ぶことはほとんどない。大学に勤務しても開業医に勤務しても経営のことを学んだり人事のことを学んだりすることはほとんどと言っていいくらいない。

 全くの見様見真似である。

 今から10年以上昔は歯医者の数も今ほど多くもなく、まず開業すればそこそこ食べていけるという状態だったらしい。
 いわゆるドンブリ勘定でも経営がなりたっていたらしい。

 ところが、患者さんの数が減り、歯科医院の数が増え、そして医療費がドンドン削減される一方の昨今、開業すればそこそこ食べていけるという時代は終わっている。

 昔は、歯医者が「開業するので資金を融資してください」と銀行に行けば、担保なしでもポンと1億円でも融資してくれたらしい。

 でも、6年くらい前、僕が銀行に行って「開業を考えているので融資の相談をさせて下さい」と切り出した時は「ほとんど門前払い」状態だったのである・・・
2003/01/10 (金)

試される歯医者
 僕が「よ〜し!いっちょう一旗挙げるか!」と思った頃、日本経済はドン底と言われていた。(まあ、その後も地を這い続けているが・・・)
 都市銀行が、大手生保・大手証券会社が、ゼネコン、リゾートホテルがバタバタ倒産している真っ只中だった。

 特に北海道は真っ先に見捨てられがちだった。
 当時、北海「道」は「北海道を表すキャッチコピー」を募集していたのだが、選ばれた語句がなんと「試される大地 北海道」というモノだった。

 新聞の投書欄に「北海道民がこれ以上試されてたまるか!」という内容の投書もあったが、行政側の選んだキャッチはまさに上記のようなものだったのである。

 と言うわけで、最初に飛び込んだ銀行は「一体何のご用?」ってな扱いを受けたのである。

 あいにくと、その銀行は倒産した「北海道拓殖銀行」を併合している真っ最中で新規の融資話などもっての他という雰囲気だったので、ほうほうの態で店舗を後にした。

 ほぼ同時期、別の地方銀行にも「あの〜」とハナシを持ちかけていたのであるが、担当の人は「まず詳細な事業計画書を持ってきてくれ」とのことだった。

 過日も書いたように歯科医師は経営のこととか、事業を起こす段取りとかそういうことに関してはトンと疎い。大抵は歯科材料関係の会社がアドバイスしてくれたりサポートしてくれるケースが多い。
 中には経営コンサルタントと手を組んで経営のアドバイスをしてくれるようなところもある。また、開業する場所を探したり、立地条件を調べてくれたりする会社もある。

 とある歯科材料関係の会社に「これこれこういうわけで事業計画書なるものを作成してみて欲しい」と依頼し、それを銀行へ持っていった・・・
2003/01/13 (月)

事業計画書
 さて、とある経営コンサルタント会社が作成した「事業計画書」を銀行に持参したのであるが、担当の人はパラパラと一瞥して一言・・・

 「これ、自分で作ったものじゃないですよね?」と・・・
 確かに表紙には「○○経営コンサルト」とかって書いてはあったが・・・

 根拠とする数字やデータは当時「分院長」として勤務していた「分院」を参考にしたものだった。例えば「来院患者数」とか「見込まれる収入」とか・・・

 「これじゃだめです」とかってのたまわれる。
 「自分で作ってくれ」って・・・

 当時・・・5〜6年前、僕はパソコンは所有していたし、そのパソコンに表計算ソフトは入っていたが、あいにくとプリンターを持っていなかった。

 プリントできるモノは「ワープロ専用機」しかなかった。
 僕は経営コンサルタント会社の事業計画書を元に、新たに表計算ソフトで計算しなおし、ワープロに入力しなおし、プリントして銀行へ持っていった。

 またもNGである。
 「およそ見込まれる収支の計画書」と「予定より順調な場合の計画書」と「最悪のケースが考えられる計画書」の3パターンを作成して持ってきてくれ、と言われた。
 言われた通り、3パターン作って持っていった。

 担当の人は「これを本部に提出してみます」と言って「最悪のケースの計画書」を手に取った。
2003/01/15 (水)

立地条件
 札幌市中央区で、やや街の中心部からは西寄りだが、それでもオフィス街と住宅街の境目という場所である。

 僕が開業する前から周りは歯医者だらけであった。
 以前もどこかで書いたが、半径250メートルの円内に14〜5軒は歯医者があった。しかもそのうち2軒はウチから4〜50メートルの至近距離である。

 「親切な」歯科材料店のいくつかはマーケットリサーチをしてくれた。
 結果、全て「そこでの開業はお勧めできない」という結論だった。

 詳細な地域の人口、歯科受診率などから導かれた数枚の報告書もあったが、それは銀行に見せないことにした。それを見たら「そんなとこで開業するのに融資はできない」な〜んて言われかねない雰囲気だったからである。

 自分なりの勝算はもちろんあった。ないと開業できないが・・・

 いくつかあるが、最大のポイントは「近隣の歯医者はほとんどテナント開業」ということだった。

 歯科で開業する場合、テナントビルの一角を借りるか、それとも自前で建物を建ててしまうか?というのは皆悩む点である。それぞれに一長一短がある。

 どちらかと言うと人口密集地ではテナント開業が多い。周辺に行くにしたがって、一戸建てが多くなる。

 お仕着せを嫌う僕は「自由な設計」ができて、駐車場も確保でき、そしてどうせなら住宅も一緒にしちゃった方がいろいろな点で好都合と考え、一戸建ての道を選んだ。
2003/01/17 (金)

施工業者選定
 銀行の融資話は一応GOサインが出た。GOサインと言っても、それは「確実に融資しますよ」という意味ではない。「融資に向けてハナシを進めましょう」という意味である。

 これがないと他の件も進まない。
 借金のうち、一番大きなウェートを占めるのが「歯科医院筐体」である。
 そして、この筐体の見積もりが出ないと融資話も先へは進まない。
 「大体何千万貸して下さい」じゃダメだからである。

 融資話と並行して、いくつかの建築業者にハナシを持ちかけていた。

 全国規模のハウスメーカー2社、地元の工務店3社である。
 全国規模のハウスメーカーは歯科医院の建築も手がけたことのある会社、地元工務店の1社も歯医者の設計・施工を得意と自認するところであった。
 後2社の地元工務店は「歯医者は建てたことがありません」という会社だった。

 それぞれにプランを出してもらった。
 と、同時に自分でも何枚も独自のプランを描いた。

 実は後で振り返るとこの時期が一番楽しかった・・・
 全体の図面は50分の1で、歯科用診療台、いさゆるユニット周りは10分の1で図面を書き、動線(人が行き来する道筋)を考えた。

 最初にプランがトントンと進んだのが、全国規模のハウスメーカーP社であった。

 いろいろ注文を出すたびに小奇麗な提案書を何度も持参してくれた。
 ウチの敷地は四角形なのであるが、やや変形している。しかも駐車場をある程度確保すると、残りの坪数は「僕が描く歯科医院像」にギリギリの広さであった。

 この変形四角形の敷地というのが後々建築業者を選ぶ最大のポイントになるのである・・・
2003/01/20 (月)

縮尺のマジック
 トントンとハナシが進んだハウスメーカーのプランはこなれていた。
 さすがに「歯科医院をいくつも経験しています」と言ったことだけはあると思った。

 モデルハウスも見学し、セールスの人とも仲良くなり、そろそろ契約してもいいかな?と思っていた矢先だった。

 フト、プランの図を見ていて気になった。

 そのプランの図というのは「設計図」ではなく、一種の「絵図」といった雰囲気で治療用の椅子などに横たわるヒトなども描かれていたのである。

 何気なくヒトに縮尺定規を当ててみて驚いた!
 そのヒトは「身長が140センチ相当」なのである。

 他もよく見てみると描かれている「ヒトやモノ」が小さいのである。

 当然、対照的に建物が広く感じる。
 改めて動線やらヒトが行き来する「ハバ」を図り直してみて、驚いた。
 「狭い」のである。

 他にも「同じメーカーで建てた」という歯医者を見学させてもらったのであるが、やはり「狭い」のである。どうにもこうにも窮屈なのである。

 あと、建築関係の本などを見て、そして実物も見て驚いたことがあった。
 例えば「木のドア」と思っていたモノが実は中身がすかすかの箱で、表面だけ「木のプリントを施した印刷物」が貼ってあるに過ぎなかったのである。

 別のハウスメーカーもそうだった。
 「この柱邪魔なのでなんとかなりませんか?」と言っても融通が効かなかった。
 恐らく部屋毎にユニットで「製造」し、現地で組み立てるという施工方法のためらしい。

 というわけで「ハウスメーカーの線」は消えた。
 決定打は「外観」が普通の家と変わらなかった、ということではあった。
2003/01/22 (水)

地元工務店
 家選び、建築業者選びは「歯医者選び」よりも何倍も難しいかも知れない。
 仕事の大きさ、動くお金の単位、そして使う年数、どれを取っても規模がケタ違いだ。

 本当は2年でも3年でも、とことん時間をかけてじっくり業者を選んだりプランに時間をかけるべきなのだろうが、僕に与えられた時間はそれほど長いものではなかった。

 勤務していた「分院」の期限があったからである。
 そして期限が満了したら、間髪入れずに開業したかったからである。

 ハウスメーカーは「一般的な住居」として住む分にはいいかも知れないし、歯医者や店舗としても「大方のヒト」にとっては満足のいく仕事をしてくれるのかも知れないが、それは「最大公約数」の範囲でしかない。

 というわけで、他の地元工務店数社にプランを競ってもらうこととなる。

 地元工務店の一社は、歯医者専門と言っても過言ではないくらい、歯科医院の建築や内装をこなしている所らしかった。

 プランもこなれていた。
 でも、「一般の歯科医院」の範疇を出ていなかったのである。
 「奇抜なデザイン」を求めていたわけではないのだが、「ごくごくありきたり」というのもイヤだった。

 また、見積もりがあっけないほど大雑把というのも気になった。
 A4の紙キレ一枚だったのだ。

 多分、「丸投げ」で歯医者を建ててもらうにはそれでよいのだろう。
2003/01/24 (金)

I氏の微笑み
 ウチの親は60代にして初めて家を建てた。
 それまではと言えば、病院の社宅のようなところだったり、祖父の古い家を借りて住んでいたり、医院の2階の病室を改装したような所に住んでいたからである。

 ウチの親はいろいろなことにこだわるタイプなのだが、その親が選んだ地元工務店の方にも相談してみることにした。

 後に、その工務店の社長になるI氏はにっこり微笑んで「ウチで建てさせてもらったら繁盛しますよ」と言った。
 そういうことを言う建築屋さんは初めてだったので、新鮮に感じたものである。

 歯医者は初めてというその工務店の出してきた最初のプランは、僕がアタマに描いていた「歯医者として成立する間取り」とは程遠かったが、他のハウスメーカーや工務店にない特筆すべき大きな特徴があった。

 変形四角形の敷地に見事に即した外形だったのである。

 敷地は60坪強。駐車場4台、建蔽率80%という条件では直角に頼った設計ではどうしても敷地を生かしきれなかったのである。

 そこから僕と設計士のせめぎあいが始まった。
2003/01/27 (月)

贅沢な要求
 当時・・・むさぼるように建築関連の雑誌や本を読み漁った。
 「商店建築」などという専門誌や「医院建築〜歯科医院特集」なんて本を取り寄せて読んだりもした。

 もちろん一般的な「家作りに関する本」や雑誌も読んだが・・・

 「医院建築〜歯科医院特集」という本は面白かった。
 いろいろと凝った造りの歯医者がたくさん掲載されていたからである。

 ただ、難点があった。その本で紹介されている歯科医院の大半が昭和末期から平成初頭に造られた建物であるのだ。
 即ち、いわゆるバブリーだったのである。

 一番印象に残ったのは「診療台」を扇形に配置し、そこから庭が見渡せるという診療室だった。

 ウチの敷地は狭かったが、「坪庭でいいから設けて欲しい」という課題が設計士につきつけられたのである・・・
2003/01/29 (水)

坪庭
 紆余曲折はあったが、南西の角に広さにして「6畳分」ほどの坪庭を設けることとなる。

 どういうわけか「坪庭」が欲しかった。

 後に思い返すと、恐らく、建築を依頼する会社のパンフレットの坪庭が脳裏に焼きついていたからだろうと思う。

 中央に手水鉢を配し、飛び石を置いたりして「茶室の庭」をイメージした。

 そして、その坪庭を取り囲むように治療用の椅子を配置した。
 恐らく、そういう配置の歯科医院は非常に珍しいだろうと思われる。

 一見無駄なスペースが多そうに感じられるかも知れないが、1/10の設計図上であれこれ治療用椅子の型紙を並べ替えてみて、最適と思われる角度を探し出した。

 微に入り、細に入り、あれこれたくさん注文を付けたが、設計士さんはその都度快く改善プランを出してくれた。

 そして、この建築会社の凄いところは見積書であった。
 「医院部分」「住宅部分」「基礎・外構部分」に分けて、それぞれ10〜30ページくらいの見積書だったのである。

 実は他社の見積もりに比べて「約1割」ほど高い見積もりだったのであるが、見積書と設計図の中身から十分納得のいく価格だった。
 元々数千万のコストがかかるものなので、約1割と言っても数百万円の差になるわけなのだが・・・
2003/01/31 (金)

歯科材料
 歯科医院筐体のプラン、見積もりと並行して、歯科器材一式をリストアップし、見積もりを数社に出してもらった。

 期限を決めずに「これこれの器材・材料一式の見積もりをお願いします」と言って出した。

 ちょっといじわるだったかも知れないと思うが、「一番最初」に見積書を持ってきた歯科材料店にお願いした。

 歯科材料店にはスピーディーさを要求していたからである。
 万が一歯科材料が少なくなったり、なくなったりした時、注文して迅速に対応してくれるところでないと困るからである。

 早いところは翌々日くらいに見積もりを持ってきたと記憶している。
 遅いところは2週間くらいかかった。そこは安かったが、「安かろう遅かろう」ではだめなのである。

 各種見積もりが出揃って、その他色々な書類を携えて銀行へ正式に融資の交渉に臨むわけであるが、それはまた来月のお楽しみ・・・